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佐野 寛 Hiroshi Sano

2006.4.1


クリエィティブディレクター
コーワのカエルの生みの親。60年代よりパッケージからCMまで何でも企画制作の後、東京学芸大学教授10年、目白大学教授5年。1989年度Gマーク総合審査委員長。現、日本デザイン機構理事。近著「現代広告の読み方」(文春新書)「メディア写真論」(パロル舎)他。


デザインの読み方について



実用的な「現代デザインの読み方」と「理想的なデザイン」の評価の仕方について書く。後者は少し長くなるので、読みたい人は読む、ということでいい。

1:現代デザインの読み方

デザインのカタチは文化のカタチの下位概念である。市場に溢れるモノやコトのデザインの混乱は、即、文化の混乱を示している。
モノやコトのデザインにおける共時的一様化と通時的無秩序化は、目新しさに飛びつく多数派の消費者相手に、受け狙いのデザインの大量生産大量販売を続けてきたことの必然の結果である。
ある文化は、縦横斜に相関するモノやコトを統合する価値観と美意識の表れとして可視化する。いってみれば価値観・美意識の「ルール」なのである。それが混乱の極みに達しているのは、現代消費社会を統べている文化様式を支える価値観・美意識がそういうものだからだ。それはいわば「視聴率文化」であって、マスメディアとくにテレビの中に現れるモノやコトと消費者が欲求するモノやコトが「ニワトリが先かタマゴが先か」の関係になったサイバネーションが日々高速化して動いていく文化である。
そしてそうした「視聴率文化」の中で「デザインの読み方」はスタイリストがスタイリングする時「スタイルの読み方」と同じになる。読み方どころかデザインという仕事が丸ごとスタイリストと似たようなものになる。デザイナーどころか、メディアの構成者も番組制作者も広告制作者も同じことになる。皆がスタイリスト的感覚で、デザインを評価し、タレントを評価し、取捨選択しているのである。
明治維新以来百数十年を経た今も「和風」は文化様式として強かに生き残っている。柳宗悦がまとめあげた「民芸様式」も健在のようだ。上記のような激動は、主として明治期に始った「舶来様式の輸入」に関連して起っている。マンガやカジュアルファッション領域でようやく新日本それは、常に手本があり見本がある文化なのである。だがその文化は様式(モード)になることはない。ファド→ファッション→モードの法則で言えば、モードどころかファッションにすら満足になれない。スタイリスト的ファッション感覚だけがデザイン評価の基準になる。それしかなくなった。そして、市場の過当競争が「視聴率文化」としての新製品競争を展開し、IT革命の進展が変化の速度を加速させ、今のような総アキバ化が始まった。モノやコトの共時的一様化と通時的無秩序化に加えて、街や町並みの共時的無秩序化が始まったのだ。
もっとも「アキバ」や「アメ横」の猥雑には活気がある。猥雑は活気の素。猥雑が極まればそこは祝祭空間となる。格差社会の下流階級はそこに殺到して現代消費社会そのものを楽しむ。悪いことではない。だが、そうした「ハレ」の場所で、自分の「ケ」としての家や部屋や生活を構成するモノやコト(例えばライフスタイル)を選ぶとなると大変だ。皆がスタイリストの選択眼と知識を持たないと、あの家もこの部屋も、酷い生活空間になってしまう。
というわけで、現代デザインの読み方を消費者に教えることは言うは易く行なうは難しのテーマになる。消費者にとっては自分でスタイリスト的能力を習得するより、「デザインを読む」ことを、人任せにする方がずっといいことになる。そして手本や見本が並ぶ雑誌や番組の出番になる。という流れの中に例えばコンラン・ショップが生まれ出てきた。そこは和の空間を彩る家具什器や衣服や立ち居振る舞いのように互いに調和しあうグッドデザインの多種多様な品々が並んでいる。通時的にも共時的にも高度な共存ができる近代的デザイン、量産製品のデザインが並んでいる。
そしてそうした品々を無数の商品群から選択して並べる人こそ、時代が要請するデザイナーなのかもしれない。私が今頼んでいる工務店の建築士は、分厚いカタログの中から、私の要求に応えそうな商品をパッと見つけだす名人だ。ありとあらゆるスタイルがカタログに並ぶ時代の中で住まいのカタチをデザインするということは、そういうことになっているのかも知れない。デザインするということが、創造するというより編集するといった方が正しい、ということになっているのかも知れない。

2:理想的なデザイン

人は、意識的にか否かに拘らず、自分が身につけた価値観・美意識によってデザインの評価をしている。その価値観・美意識は、その人が生きてきた「時代」の中で形成される。その時代の政治・経済・文化のありようとその人の相関が、その人の価値観・美意識をつくる。子どもたちは、親や先生やメディアのメッセージの受入れ方によって自分達の心のカタチをつくる。大人たちはこども時代の心のカタチを、自分のキャリアや性格に合わせて変形したり強化したりして、身につける。
われわれデザイナーも例外ではない。現代のデザイナーは、発達する情報化社会の中で生れ育ってきた。発達する情報化社会がわれわれの心にインプットし続けた視聴覚的情報が、こどもたちの心のカタチ(価値観・美意識)を、勝ち組」「負け組」に分けたりするのと同じように、われわれのそれを大別して二様、実際には多様に、つくり分けてきた。そしてそれぞれの心のカタチが、自分の関わるデザインの評価を左右している。自分自身のするデザイン、同時代のデザイナーのするデザイン、そして他国のデザインや歴史的デザインの評価のカタチを、デザイン評価者の心のカタチがつくっている。
もう一つ。現代は何でもすぐ過剰になる大量生産大量流通大量消費の時代であり、その時代の中では、多数派の心のカタチを持つ方が、少なくともビジネスのためには好都合である。高高度情報化社会に過剰適応した女性層をメインターゲットにするビジネスがそのことを見事に証明している。高高度情報化社会のデザインが「勝ち組」になるか「負け組」になるかは、マスメディアによって如何に情報化されるか否かにかかっている。現実がそうなっていることは否定のしようがない。そういう時代の中でデザイナーにとって「優れた編集者」になる方が得であることは、1で見たとおり。だがそうした現実のありようを容認するかどうかは別問題であり、少なくとも「理想的なデザイン」にとっては、そのような流れの中に身を浸していてはダメだ。
現代デザインを支配しているのは、見てきたとおり視聴率調査に代表される調査至上主義である。そこで被調査者は選挙の投票者のようなもので、皆「一票の虚しさ」を感じている。被調査者は、いわば「猫が見てても視聴率」の猫として調査に応じるのだ。そんな調査の集計結果が「消費者の意志」とされて、すべてを決める。少数派の本気の意見は完全に無視され、多数派の無責任な多数意見だけが、われわれのデザイン行為を支配している。
まるで「こだわりのラーメンや」のように、自分の信じる「いいデザイン」「素晴らしいデザイン」をつくることに、われわれは夢中になる。夢中になれる。デザインについて語る者(デザインコンサルタントやデザイン評論家)は、デザインについて語ることに情熱を傾けることができる。だが現実はそのように「夢中になること」を許さない。この大量生産大量消費社会の中で自分で素晴らしいと思うデザインをすることは、自分自身が多数派の消費者と同じ心のカタチ、思いのカタチを持たない限り不可能なのだ。
だが多分こんな時代でも「理想的なデザイン」を実現することはできる気はする。単に容易ではないというだけかも知れない。例えば、グンナール・アスプルンドが25年かけて造り上げたスコーグシュルゴーデンのような素晴しい例がある。アスプルンドは想像を絶する努力の結果、あの、魂が震えるような「理想のデザイン」を造り上げ、人類のために残したではないか。
周知のとおり、近代デザインは理想主義として始まった。第一次世界大戦の敗戦国ドイツでは芸術家社会主義者であるグロピウスが興したバウハウスの「ゼロから始める」を掲げたデザインが、戦勝国フランスではル・コルビジェが「新精神」運動として始めたデザインが、新しい、理想主義的世界をつくるためのデザインとして始まった。バウハウスのデザインに対抗的だったライトのデザインも、他のデザインに対して超越的だったバックミンスター・フラーのデザインも、それぞれに理想主義的デザインだった。
一方、戦いを勝利に導いた若い国アメリカで、「若さと新しさ」が圧倒的な価値観・美意識になっていく時代の中で生まれ、ヨーロッパに広がったアールデコのデザインは、若いデザイナーたちの理想の目標として追求された。
だがもしグロピウスやコルビジェやライトが、地球温暖化問題、異常気象問題、世界人口問題、水問題、エネルギー問題などが彼らの時代には想像もつかなかったような現実問題になっている今、デザインの理想を考えるとすれば、少なくともニュアンスのまったく異なるものになっただろう。しかしアスプルンドは、バウハウスに代表される時代精神を共有しながら、民俗や宗教やなにより「時代性」を超えた素晴しいデザインを実現したのだ。そしておそらくグロピウスもコルビジェも、時代精神としてはアスプルンドが信じたとおりの理想を胸に抱いてデザインの啓蒙に熱中したのだ。
アスプルンドは一つのことで彼らと違った。アスプルンドはコルビジェたちのように絶対的普遍性を求めなかったし、多分、信じてもいなかっただろう。私が魂が震えるほど感動したアスプルンドのデザインは、墓苑のデザインだったのだ。アスプルンドは幼くして死んだ息子のためにその墓苑をつくったという。だとすれば、徹底的に自分の理想を追求したと言えるだろう。しかも墓苑は当時土葬が常識的だった世界で「土に還る」場所なのだ。抽象的ではなく具体的。視聴覚的ではなく五感的。ナンバーワンでなくオンリーワン。TBSの番組「世界遺産」で見たその「ゴーデン」は次のような場所だった。そう、その「場所」は世界遺産に登録されている。私が「世界遺産」で見た近代デザインの文化遺産はミース・ファン・デル・ローエの「ブルノのトゥーゲンハット邸」とリートフェルトの「シュレーダー邸」と、その「ゴーデン」だが、その「ゴーデン」だけが近代とか現代といった時代性を超えた、まるでピラミッドやサン・モン・ミッシェルのような「自然遺産性」とでも言いたいものを持っていた。そしてなにより私が感動したのは、そこが墓石のない墓苑だったことにだった。広大な緑の丘の全体が墓所なのである。土葬ではなく火葬。そこに眠る人たちは、灰になって土に還るのだ。花咲か爺さんのポチのように、そこに眠る人たちの骨肉を焼いた灰は、その墓苑の草木や樹木となって美しく季節を彩っているのだ。アスプルンドの努力は、最初に心の中に思い描いたヴィジョンをスケッチやカタチ(模型)にして人々に共有させ、そのヴィジョンの意味や意義を人々に理解させて、力ある人たちの賛同を得て現実のカタチにすることに注がれた。そしてその時、アスプルンドのヴィジョンに感動した人たちの心の中には、見事なスコーグシュルゴーデンが創られていたのだ。そして今、そのヴィジョンは、地球の一部を構成する「理想のデザイン」としてわれわれの知るところとなった。そして、そこに眠る12万人の家族親族知人友人の心を、スエーデン中の人々の心を、ヨーロッパ中の人々の心を、われわれを含む世界中の人々の心を感動で充しているのだ。
墓苑ならば、古希を超えた私の問題でもある。若い人たちより遥かにリアルにヴィジョンを思い描くことができる。もしかしたら私にも「理想のデザイン」を実現するチャンスが残っているかもしれない。(完)

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